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「老いの空白」 鷲田清一著

  14, 2013 00:20
久しぶりに本を読もうと思い、買ってしばらく眠らせていた本を読みました。

「老いの空白」(弘文堂)鷲田清一著
老いの空白

(。・w・。 )
ちょっぴり難しい言葉も多かったので時間がかかったのですが
手を止めては、何とも言えずまた読み進めたくなる本でした。

この本の初版は平成15年 今から10年前。
老いと密接に関係のある「ケア」についての記載ですらも
「痴呆」→「認知症」になっただけで何一つ変わっておらず
逆に「専門性」を声高にかかげるがゆえに空っぽのケアになっていることも表しているなぁと思ったのです。
10年間変わっていない…もしくは10年前よりひどくなっているかも…しれない。

老いることが忌み嫌われる世の中って違うなぁって思うんです。
先人は敬われるべき人であるはずですが
その老いていく過程の中で当事者ですら、自分の存在の意味を探しているという矛盾。
意味がなければ存在すらないのかという社会はやはり違うと思えます。

昔は老いた者には老いた人にできない役割がありました。
だんだん核家族化が進みそうしたことも薄れていく中で
世の中の流れの中で成果主義的な思考ばかりが教育や職場の中で行われています。
体は小さな子供なのに思考は大人びたものを求められる。
誰かに気に入られなければいけないと顔色ばかり眺めている。

いい子でいること
愛らしい年寄りでいること
を強いられる世の中になっていけばいくほど
皆が息苦しさを感じている。

そうしたことを受け入れられないがゆえに
ケアもまた負のスパイラルと安寧を求める。
反発する出来事はどちらかというと封じられるし
「問題行動」としてしばしば取り上げられる。

問題なのは受け入れ側の問題であって
当人にとっては、受け入れられないから行動しているだけなのだ。


今世の中は「精神的に病む」人が多いように感じる。
精神科医に行けば診断名がつき内服薬を処方される。
実は昔は”ちょっと変わった人”として心が病む人は地域に存在していた。
しかしその”ちょっと変わった人”は今では管理に置くべきだという話になる。
ちょっとした迷惑が許せなかったり、その迷惑が極端に大きかったりする。


社会の波についていけなくなったり、疲れたことを伝えられないがゆえに病む人もいる。
「疲れたー」ということを発言できない社会は決して成熟して豊かな社会とは言えない。

これだけ”自由””自己決定”って言われていても、なぜノーマライゼーションという
精神は福祉の世界ですら定着しないのか?
地域コミュニティの構築やネットワークの必要性を訴えていても
許しあえる関係があってこそ、そこに「いていい」あるいて「あっていい」という思いになる。

ただそこにいる(ある)だけで人間には価値がある。
もし一緒に何かをなしえるならそれは、共有ではなく時間軸が同じだということ。
そんな関係性が今の閉塞した地域やケアを考える一歩になるのではないかと思うのです。

何もしない勇気
実はそこに幾重にも重なったジレンマと
人が成熟する過程にもっとも必要なエッセンスが詰まっているからこそ
考える必要があると感じました♪
  •   14, 2013 00:20
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