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尊厳

  04, 2011 09:59
MSNニュースから・・・
「孝行息子が92歳の母を殺した理由は」

事件は昨年12月に起こっている。
被告人が20歳代の時に実父が脊椎損傷により介護を要するようになる。
実父を看取った後、実母が認知症が出現し介護を10年以上続けてきた。
少しずつ寝たきりになってき、食事もなかなかやわらかくしてものしか食べられなかった。
腎盂炎や、膀胱炎になり、年数回病院の入退院をくりかえしていた。
医師からは以前入院した際に「胃に管を通して栄養を入れる手術を勧められ、反対だった」


裁判のやり取りの中で弁護士は被告人になぜ反対だったかと問います。

「母はだんだん体力がなくなり、目は見えなくなり、耳も聞こえなくなっていました。最後の味覚まで奪われて、管を入れられて最期を迎えるのは、母にとって、あまりに酷で悲しいこと。とても見ていられませんでした」
そしてどうしたのかと尋ねられる。
「延命措置はだめだ。これ以上苦しませたくない。楽にさせてやりたいと思いました」

読み進めていくと、記者の死への記述がある。

「裁判を傍聴するうち、思い出したのは、黒澤明監督の映画「赤ひげ」。赤ひげ(三船敏郎)に「人間の一生で臨終ほど荘厳なものはない」と言われ、新米の医師・保本(加山雄三)が蒔(まき)絵(え)師の六助(藤原釜足)を看取るシーンだ。あえぎながら事切れる六助は、恐ろしい形相だった。 誰にでも訪れる臨終は、安らかとはかぎらない。被告の「楽にさせてやりたかった」との言葉は、やがて自分にも訪れる死が怖かっただけなのかもしれない。」

死が怖いと感じている人は、この記者本人であるように感じた。
緩やかに老化しながらでも死というものは人間にとって未知の世界である。
記者という仕事柄、背中合わせの死しか観ていないせいかもしれない・・・・。

「馬場裁判長は執行猶予判決とした理由として、自首していることや罪を自覚していることに加え、「献身的な介護を10年も行っていたのであって、被害者に対し、深い愛情をもって接していたことは疑いがない。犯行当日に被害者がもう助からないかもしれないと思い込んだとしても無理からぬ面がある」と情状酌量した。
 もっとも殺害行為については、「医師による治療を受ければ被害者の容体が安定する可能性があり、ほかに適切な手段をとることができた。そもそも、そのような理由で人の命を奪う行為は正当化されるものでない。生命を奪うという結果を生じさせたことは重大」とも述べ、被告の殺害行為を非難した。」


殺人という行為はどんな理由があっても許されるべきではないだろう。
が、
裁判長の言葉は少し疑問に感じた。

”医師による治療を受ければ被害者の容体が安定する可能性があり・・・”

医師は次回入院した際には胃ろうをしましょうと薦めているのに?
被告人は被害者である母が望まないであろう胃ろうをしたくないと言っているのに?
病院に連れていくということは、胃ろうを容認する行為であると思ったから、
病院に行きたくなかったとするなら、なんとも切ない話である。

認知症で、胃ろうをすることに対して、なんの罪悪も感じることなく
延命とは思わぬ人は多いだろう。
むしろ一般的な考えと言えるかもしれない。

人として生きる上で、
多くの人は自分には胃ろうを望まないが、親族にはためらいもなく
胃ろうを選択するという人は多い。

今日本中で4万人を超えるという・・・。
世界に当てはめてみると、胃ろうの人口は日本がダントツだそうだ・・・。

人は尊厳を持って生きるべきだという建前と
医師に勧められるまま胃ろうを選択せざるを得ない現状。

長く介護してきた息子の意思は医師にきちんと伝わらず
医師もまた通り一遍の医療を提供しているように感じた。


7月に拝聴しにいった
金沢で胃ろうで有名な 小川病院の小川滋彦先生の話を思い出す。

胃ろうの管理というのは非常に難しい。
なのにやすやすと病院で処置されている。
大きな病院は胃ろうを作っては、その後どうなるとか生活のことを考えず
食べる、食べないという視点で話をする。

患者さんにとって、食べるということがどれほどの意味があるのか。
そうしたことを踏まえながら
胃ろうの中には意味のある胃ろうは必要である。

そんなお話をされていた。
全ての胃ろうが悪いと思っていたおいらにとっては、目からうろこの内容だった。

胃ろうという行為にとって
患者さんが生きるということにおいてどういった意味を持つのかを
考え、そして地域の中で定期的に管理できる状況でなければ
本来行うべきでない・・・しかしながら、どんなに太い管であっても
平気で患者さんに入れているという現状もあったりする。

ここに患者さんの生きるということを阻害しているという
因子があることに医師も、そして民も気づく必要がある。

もし、この事件で、
在宅で看取ってくれるというお医者さんがついていたら
この息子さんは犯行に至ることなく
このお母さんをきちんと見送ることができたんじゃないかということを・・・。

在宅で看取れる先生を探せばいいじゃないか

世間の人は言うだろう。
そしてそんな在宅医療を掲げている先生はほんの一握りしかいない。

介護で精一杯の家族にそれだけ調べられる余裕があるだろうか。
ケアマネージャーにしても、そこにかかわる事業所にしても
息子さんとお母さんのいづれ訪れる
最期についての意思疎通は取れていたのだろうか・・・。

息子さんは手を下したということで実刑は受けるべきだと思う。
しかし
男性の介護や、抱え込む家族介護
かかわる人のちょっとした配慮や
医療・介護・・・さまざまなことがあれば事件にならないことも多い。

介護にまつわる事件をセンセーショナルに掻き立てるのではなく。
ジャーナリストとして人間の生と死を投げかけるような書き方をしてほしいと感じた。

 尊厳生
 尊厳死

自分が望める生き方
自分が望める死に方

もう死という話を置き去りにしてはいけない。
  •   04, 2011 09:59
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