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ケア塾たまてばこ 学習会 第14回 

  13, 2011 05:28
【わかりやすいはわかりにくい?】(鷲田清一氏 ちくま新書)を読む(第9回)
講師 : 西川 勝氏(大阪大学コミュニケーションデザイン・センター特任教授)

第8章 所有できないものしか所有できない?-自由について


所有論というのがある。
~は所有格とあらわされるように

わたしの椅子である とか
わたしのからだである とか
わたしの5歳出来事である とか
わたしの妻である とか

それは物やからだや記憶や他人であっても所有するということで
存在を示そうとする。
しかし本来、所有しているのだろうか?!というところから始まる

●自分の存在を自分の所有の対象とする
 この命がわたし→(存在)
 この命をくれてやる→(所有)

●労働所有論 「所有」を「自由処分可能性」と等置する
ジョンロック
「ある事物がだれに帰属するかは、それをだれが作り出したかによって決まる。
つまり事物はそれを作り出した者のものである。なぜなら、それを作り出した
労働が労働する者自信のものだからである。そしてその根拠は労働を生み出す
身体が労働する各人の者であるという点にある、と。つまりそこでは、身体の
自己所有ということが所有権の最終的な根拠とされたのである。


こうした身体の自己所有という考え方の中に
養生訓というものがある。
【この身は自分のものではなく父母、はては天と地のものである】
だから勝手に判断はできないという・・・。

今まで深く考えてこなかった。
実はおいらの祖母は献体に出している。
それは30年前リウマチという病気で、医者から研究対象として
献体を薦められたということだからだ。
そしてまた、うちの両親も・・・登録をしている。

本人の意思なのだからよいと思っていた。
そんなに深く考えていなかった。
しかし、自分だけのものでなないという考え方や
その身体を差し出すことが本来所有できるものなんだろうかという疑問は残る。

(;´Д`)´д`);´Д`)´д`)
難しいねぇ・・・。
臓器移植だって同じと言えば同じ。
おいらも脳死状態になれば臓器移植を望んでいるが
はたしてそれは所有物として差し出すことは
倫理観であったり道徳観という部分においてもよくよく検討されるべきであると
感じた。

今の現代社会はその記憶すらも所有しており
記憶がないものを社会から排斥する動きはある。
自由という後ろ盾の中、「自律」が叫ばれる世の中で
その「自律」を確立するために自己同一性(アイデンティティ)が
必要不可欠となっている現状について、まだまだ消化しきれていないけれど
来月までに少しずつ考える機会になればいいな・・・。

今回は第8章を半分のところで終わりました。
ちょっとゆっくり次回までに考えてみます♪
  •   13, 2011 05:28
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